国指定史跡 小田原城跡
御用米曲輪
の新たな発見
解き明かされる「戦国時代」と「江戸時代」
小田原城址公園の北側に位置する御用米曲輪(ごようまいくるわ)は、江戸時代に徳川幕府が備蓄していた米(御用米)を保管する蔵が置かれた重要な場所でした。本市では、昭和57年から史跡整備を行うための発掘調査を実施し、これまでに戦国時代の池や切石敷(きりいしじき)遺構(庭園)、礎石(そせき)建物跡、江戸時代の蔵跡などの重要な遺構が見つかっています。
今回は、第10次調査(令和7年度実施)の新たな発見を紹介します。この発見により、戦国時代と江戸時代における御用米曲輪の様相が明らかになりつつあります。
戦国時代
戦国大名・小田原北条氏の武家儀礼の空間があった
空間を区画する石組水路
今回の調査では、調査区内に東西南北に張り巡らされた石組(いしぐみ)水路が確認できました。石組水路は、排水機能に加え、空間を区画する役割を持つと考えられ、過去の調査でも建物群を囲むように見つかっています。
石組水路の構造を見てみると、安山岩(あんざんがん)が積み上げられている他、石を立てて並べていたり、風祭石(かざまつりいし)という凝灰岩(ぎょうかいがん)の切石を部分的に使用するなど、場所によって石の種類や積み方、水路の深さや幅などが異なっていることが分かりました。これは、区画された空間の役割の違いによるものと考えられます。
砂利敷の「何もない空間」
今回の調査では、石組水路の南側に砂利敷(じゃりじき)遺構が広範囲に広がっていることも確認できました。場所によって砂利の大きさや密度に違いが見られましたが、全体的にしっかりと締め固められていました。
砂利敷遺構の範囲内には、建物跡などの遺構が見つからなかったことから「何もない空間」であったようです。そして、過去の調査成果と合わせて考えると、この砂利敷の空間は「広庭」(ひろにわ)という広場であったと考えられます。「広庭」は、儀礼を行う「主殿」という建物と共に、戦国大名による武家儀礼の空間を構成する重要な要素です。残念ながら今回の調査で「主殿」は見つかっていませんが、儀礼で使用した「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器が大量に捨てられた土坑(どこう)や溝が、砂利敷遺構の近くで見つかっています。そのため、儀礼が行われていたことは間違いないと考えられます。また、出土した遺物の年代から、砂利敷遺構が造られたのは四代・北条氏政の時代であると考えられます。
江戸時代
御用米曲輪に長大な建物があった
江戸時代前期の長大な礎石列
調査区の北側では、江戸時代前期の長大な礎石(そせき)列を発見しました。東西約43m、北西の端で南西に折れて南側に25m以上続き、素掘りの溝を伴っています。礎石とは、建物の柱を支える土台となる石のことで、重量のある建物を建てる際に用いられることから、長屋や多聞櫓(たもんやぐら)のような長大で重厚な建物が建っていた可能性が考えられます。
この礎石列は、寛永10年(1633年)に発生した寛永小田原大地震で被災していることから、江戸時代前期には築かれていたことが分かります。このような長大な礎石列が見つかることは珍しく、重要な発見といえます。
御用米曲輪の「これから」
御用米曲輪では、今年度も発掘調査を実施します。秋ごろに現場説明会を行い、調査成果を公開する予定です。
詳しくは、市ホームページなどでお知らせします。
「ここまでわかった!御用米曲輪
-発掘調査から探る小田原城の歴史-」
令和7年度に刊行した御用米曲輪のガイドブックです。これまでの発掘調査から見えてきた御用米曲輪の姿を、写真や図で分かりやすく紹介しています。文化財課と郷土文化館で、無料で配布しています。
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